2012年8月20日月曜日
第70回 坐禅会新聞
「感情と理性の狭間」
今の日本は大きな病に蝕まれています。それはあらゆる事項に於いて感情で物事を決めているというものです。およそ理性的ではない理由により政治家ですら本質的な問題に切り込むことが出来ません。残念ながら感情に訴える事はこの国では大きな支持を得ますが言葉だけが先行して行きます。震災後の「がんばろう日本」というスローガンや原発問題での「放射能怖いから原発廃炉」というものはその典型なのです。これら感情的に左右された発言には残念ながら本質に切り込むだけの力はありません。ただただ個々の感情を塊としてまるで日本国民の本意のように歪曲してさも全体的なものであるかのように流布しているのです。これらの問題は冷静にそして順番に考えて行かねばならぬものであるにも関わらずになのです。
仏教もまた感情に左右されております。その原因となるのは檀家制度下に於ける問題でもあります。しかし本来人の生きる道を説いた仏教や禅の思想はこれら感情の入る余地の無い非常に厳しいものでもありました。道元禅師による普勧坐禅儀では事細かく的確な言葉でもって坐禅法を説かれています。そこに感情の入り込む余地はありません。ただひたすら座るという単純にして明快な言葉があるだけです。禅本来の思想は生活そのものでありひたすらにそれに打ち込む事を説かれています。ひたすら座る事により感情は落ち着き冷静な判断もここから生まれるのです。感情は一時のカタルシスを与えますがやはり解決にはなりません。坐禅は安楽の法門と言われておりますがそれはごく些細な感情に左右される事無く本質を見抜く力を養う手段であるとも思います。ただただ座る、しかしただ座ることにより心も落ち着くのです。落ち着いた心で観る、目で見るのでは無く心で観れば感情に揺さぶられる事も無いのです。
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